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WHERE TO GO? Blog

おふとん丸

おふとん丸に乗ずれば
頓に目覚めし夜明けかな


おふとん丸は不思議な船である。
数え切れないほどの眠りを経験しながら、眠る瞬間の記憶がまるでない。

おふとんに入るところはよく覚えている。
寝返りをうったり考え事をしたり、時には羊を数えたり、これらもよく覚えている。
いつ眠ったのか、その瞬間が分からない。
目覚めると「たしかに眠っていた」と知れるのだが、眠りの瞬間はまるで無かったかのようだ。

眠っている時間もまた不思議である。
例えば点滴なんかで「3時間くらい横たわっていろ」と言われれば苦痛でたまらないが、おふとん丸に揺られる6時間には快適という意識すらない。
おふとん丸は時間の進み方がちがう。

それでいて眠れない夜には、喚べば喚ぶほど遠ざかるおふとん丸である。
乗ろうと思って乗れる船ではない。
喚んでもこないおふとん丸に、気づいたら乗せられて、朝。

アルパカはかわいいどうぶつ

アルパカという名前のどうぶつを知ったのは、木彫りのアルパカを見たのがはじめてだ。
いや、マフラーの素材だったっけ。
とにかく本物のアルパカを見る前に「アルパカはかわいいどうぶつ」と認識してしまったのである。
そうしてそれは、画像検索によると、間違いではなかった。

「アルパカに会いたいなあ」と想い続けて幾年月。
アルパカのいる動物園は把握していた。
動物園に行くのは寒い季節が適しているとも考えていた。
フットワークだけが不足していた。
気力体力ときいたり、ようやくアルパカをこの目に見たのである。

その瞬間のぼくは、ちょっとした感動を覚えていた。
やっと会えたというよりも、じぶんより体の大きなどうぶつが動いている、たったそれだけの、不思議な感動。

かれが大きな目をパチクリしながら歩いたり座ったりするのを見ていると、なんだか純粋なものを感じた。
かれは自動車保険のこととか、振り込め詐欺に気をつけようとか、海鮮丼のこととか、ひとつも考えていない。たぶん。

「純粋だって? 考えないのを純粋というのなら……」

いや、分かっているよ。
目の前のどうぶつを純粋と言ったら、純粋という言葉そのものや、いろんな事象が破綻するよ。
ぼくが感じたままを口にした、それがたまたま純粋という言葉だったんだ。

動物園に行かなくても、どうぶつには会える。
でも、でっかいどうぶつに会うと、何か特別な不思議を感じる。
理屈じゃない面白さ。

味わいの歴史

もう何年か前、活版印刷の工場見学をしたときに、おもしろいお話を伺った。
昔の活版職人は、いかに印刷時の凹凸を減らすかで腕を競い合い、腕ききの職人ほど凹凸が少なかったそうな。
一方、印刷技術が向上した現代では、その凹凸を活版印刷の醍醐味としているのである。
ただしこれは、どちらがいいわるいの話ではない。

職人の手仕事だとか機械に出せない味だとか、かつて誰もが嫌ったムラが、いま売り文句になっている。
ムラというと語弊があるかもしれないが、これを最初に肯定した人物はウィリアム・モリスだろう。
産業革命以後、彼は均一化された商品群に魅力を感じず、腕のいい職人のために金を使ったのだ。
しかしこれも、産業革命がよかったわるかったという話ではない。

わるい話とは次のようなものを言う。
私事だが、先日デッドストックのコーヒーカップを購入した。
JAJパイレックスと呼ばれるヴィンテージで、1921年から1973年までイギリスで製造されていたものらしい。
見ればカップの縁や底に雫のような膨らみがあり、製造技術の低さを物語っている。
現代なら検品で真っ先に弾かれるような不均一が、ヴィンテージであるがゆえに愛おしい。

しかし、白状しよう。
ぼくは最初からこの不均一を気に入っていたわけではなく、むしろマイナス評価であった。
にもかかわらず、製品の希少性やストーリーを知った途端に評価を一転してしまったのだ。
ぼくはどうやら、手仕事には味をもとめ、工業製品には均一性を求め、全く同じムラでも扱いが別物である。
いや手仕事にさえ、工業製品に肉薄する精巧さを内心では要求しているのだ。

このお恥ずかしい発見以来、天然素材の製品もプラスチック製品も分け隔てなく扱うようになったかというと、人間そう簡単に変わるものではない……けれど、俗物たる自覚の芽生えは貴重な収穫であった。

だって、エライ人に「お前は俗物だ」と言われても素直になれないが、自分でやらかしてしまうと受け入れるほかないのだから。
この恥ずかしいダメージを恥のまま終わらせては、いかん。

おふとん酒場

生き疲れたら
おふとん酒場へいらっしゃい

チャージは不要
オーダーも不要
目を閉じておやすみなさい

終電なんかうっちゃって
おふとん酒場へいらっしゃい

閉店時間も
開店時間も
あなた次第
お気の済むまで

酒も肴もないけれど
ここはあなたのおふとん酒場
あなたごのみのおふとん酒場

おふとん酒場へいらっしゃい
おふとん酒場へいらっしゃい

#おかえりHIKKI

近代小説を読んだりクラシック音楽を聞いたりしていると、その作家や作曲家の生きた時代を思う。
その時代にぼくが生きているなら会うこともできた、と思う。
いや、会えずとも、いまこの瞬間、彼や彼女も呼吸をしているのだという認識がぼくに勇気を与えてくれると思う。

縁のないひとには、たとえお釈迦さまが隣に座っても何も感じないのだろうけれど、ぼくは宇多田ヒカルと同じ時代に生きていることを嬉しく思っている。