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味わいの歴史

もう何年か前、活版印刷の工場見学をしたときに、おもしろいお話を伺った。
昔の活版職人は、いかに印刷時の凹凸を減らすかで腕を競い合い、腕ききの職人ほど凹凸が少なかったそうな。
一方、印刷技術が向上した現代では、その凹凸を活版印刷の醍醐味としているのである。
ただしこれは、どちらがいいわるいの話ではない。

職人の手仕事だとか機械に出せない味だとか、かつて誰もが嫌ったムラが、いま売り文句になっている。
ムラというと語弊があるかもしれないが、これを最初に肯定した人物はウィリアム・モリスだろう。
産業革命以後、彼は均一化された商品群に魅力を感じず、腕のいい職人のために金を使ったのだ。
しかしこれも、産業革命がよかったわるかったという話ではない。

わるい話とは次のようなものを言う。
私事だが、先日デッドストックのコーヒーカップを購入した。
JAJパイレックスと呼ばれるヴィンテージで、1921年から1973年までイギリスで製造されていたものらしい。
見ればカップの縁や底に雫のような膨らみがあり、製造技術の低さを物語っている。
現代なら検品で真っ先に弾かれるような不均一が、ヴィンテージであるがゆえに愛おしい。

しかし、白状しよう。
ぼくは最初からこの不均一を気に入っていたわけではなく、むしろマイナス評価であった。
にもかかわらず、製品の希少性やストーリーを知った途端に評価を一転してしまったのだ。
ぼくはどうやら、手仕事には味をもとめ、工業製品には均一性を求め、全く同じムラでも扱いが別物である。
いや手仕事にさえ、工業製品に肉薄する精巧さを内心では要求しているのだ。

このお恥ずかしい発見以来、天然素材の製品もプラスチック製品も分け隔てなく扱うようになったかというと、人間そう簡単に変わるものではない……けれど、俗物たる自覚の芽生えは貴重な収穫であった。

だって、エライ人に「お前は俗物だ」と言われても素直になれないが、自分でやらかしてしまうと受け入れるほかないのだから。
この恥ずかしいダメージを恥のまま終わらせては、いかん。

おふとん酒場

生き疲れたら
おふとん酒場へいらっしゃい

チャージは不要
オーダーも不要
目を閉じておやすみなさい

終電なんかうっちゃって
おふとん酒場へいらっしゃい

閉店時間も
開店時間も
あなた次第
お気の済むまで

酒も肴もないけれど
ここはあなたのおふとん酒場
あなたごのみのおふとん酒場

おふとん酒場へいらっしゃい
おふとん酒場へいらっしゃい

#おかえりHIKKI

近代小説を読んだりクラシック音楽を聞いたりしていると、その作家や作曲家の生きた時代を思う。
その時代にぼくが生きているなら会うこともできた、と思う。
いや、会えずとも、いまこの瞬間、彼や彼女も呼吸をしているのだという認識がぼくに勇気を与えてくれると思う。

縁のないひとには、たとえお釈迦さまが隣に座っても何も感じないのだろうけれど、ぼくは宇多田ヒカルと同じ時代に生きていることを嬉しく思っている。

客の分(ぶ)

なんとなく通っているうちに店員さんと顔見知りになり、お互いの名前も覚え、食事をするほどではないけれど、世間話や趣味や家族の話をするといった関係が、ある。

そりゃあ、先方は客商売なのだから、会話をすれば愛想がいいに決まっている。
でも、「ようこそお越しくださいました」というより、「こんにちは」という感じ。
こちらもまた、大して売上に貢献していない自覚を持ちつつ、「こんにちは」という感じ。

ぼくにはこんな「こんにちは」の塩梅がとてもありがたい。
そうしてこんな塩梅を育むものは、馴々しい店員の性格でもなければ、図々しい客の態度でもなく、人間同士の相性と、ある程度の時間(期間)だと思っている。
タイトルの「客の分(ぶ)」は、「お客はエライ」とまるきり逆の思惑で書いたものだ。

こんな風に生まれた関係は、何と呼ぶのだろう。
友人でも家族でも同僚でもなく、さりとて知り合いと呼ぶにはちょっと寂しい。
ぼくの一方的な思い込みだろうか。(可能性は多分にある)

ちなみに糸井重里氏は、髪を切ってもらっている時に一言も喋らないと決めているそうだ。
価格であれ賃金であれ、通貨が介在する社会において、お金の流れる方向は意識せざるを得ない。
客の分(ぶ)をわきまえながらも、ゆっくり曖昧になれたらいいな。

じぶん裁判

今日はおフロに入るのが面倒だなあ、という日がある。
そういう日はハミガキも面倒だし、できることなら着の身着のまま眠ってしまいたい。

こんなとき、じぶん裁判所では怠惰が原告となり、ぐうたらの必要性や快適性を主張する。
被告たる理性に優秀な弁護士がつくことはなく、だいたい不利である。

翌日ひとと会うとか、たくさん汗をかいたとか、そんな情状があると原告の態度も軟化するのだが、じぶん裁判が開かれるのは、大抵なんてことない夜なのだ。

逆に、これが極端に疲れた日だとか、さんざん飲んで酔った日だったら、怠惰は理性に訴えるまでもない。
むしろ理性のほうが「寝てよし」とするため、じぶん裁判所もまったく面倒でない。

じぶん裁判の結果がどうあれ、怠惰がその実現のために訴えるのは、どうも皮肉なことである。
怠惰は能動によって本質を失い、主体たるぼくも怠惰でないという結論にいたる。
「どうしようかな」と思った時点で、あなたもわたしもナマケモノでないのだ。
安心してよい。