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WHERE TO GO? Blog

客の分(ぶ)

なんとなく通っているうちに店員さんと顔見知りになり、お互いの名前も覚え、食事をするほどではないけれど、世間話や趣味や家族の話をするといった関係が、ある。

そりゃあ、先方は客商売なのだから、会話をすれば愛想がいいに決まっている。
でも、「ようこそお越しくださいました」というより、「こんにちは」という感じ。
こちらもまた、大して売上に貢献していない自覚を持ちつつ、「こんにちは」という感じ。

ぼくにはこんな「こんにちは」の塩梅がとてもありがたい。
そうしてこんな塩梅を育むものは、馴々しい店員の性格でもなければ、図々しい客の態度でもなく、人間同士の相性と、ある程度の時間(期間)だと思っている。
タイトルの「客の分(ぶ)」は、「お客はエライ」とまるきり逆の思惑で書いたものだ。

こんな風に生まれた関係は、何と呼ぶのだろう。
友人でも家族でも同僚でもなく、さりとて知り合いと呼ぶにはちょっと寂しい。
ぼくの一方的な思い込みだろうか。(可能性は多分にある)

ちなみに糸井重里氏は、髪を切ってもらっている時に一言も喋らないと決めているそうだ。
価格であれ賃金であれ、通貨が介在する社会において、お金の流れる方向は意識せざるを得ない。
客の分(ぶ)をわきまえながらも、ゆっくり曖昧になれたらいいな。

じぶん裁判

今日はおフロに入るのが面倒だなあ、という日がある。
そういう日はハミガキも面倒だし、できることなら着の身着のまま眠ってしまいたい。

こんなとき、じぶん裁判所では怠惰が原告となり、ぐうたらの必要性や快適性を主張する。
被告たる理性に優秀な弁護士がつくことはなく、だいたい不利である。

翌日ひとと会うとか、たくさん汗をかいたとか、そんな情状があると原告の態度も軟化するのだが、じぶん裁判が開かれるのは、大抵なんてことない夜なのだ。

逆に、これが極端に疲れた日だとか、さんざん飲んで酔った日だったら、怠惰は理性に訴えるまでもない。
むしろ理性のほうが「寝てよし」とするため、じぶん裁判所もまったく面倒でない。

じぶん裁判の結果がどうあれ、怠惰がその実現のために訴えるのは、どうも皮肉なことである。
怠惰は能動によって本質を失い、主体たるぼくも怠惰でないという結論にいたる。
「どうしようかな」と思った時点で、あなたもわたしもナマケモノでないのだ。
安心してよい。

信号銀行と瞬間移動の話

急がない日、交差点の信号がいいタイミングで青になると、信号銀行があればいいのにと思う。
こんな機会に青信号を預けておいて、予め多少の不便をこうむっておくのだ。
預けておいた青信号は、バスが行ってしまいそうなときや、ちょっと急いでいるときに引き出せばいい。
実はだいぶ前からこういうことを考えているが、いまだ信号銀行ができる気配はない。

また、歩道の向こうで信号待ちをしているひとがいると、質量の交換をしたくなる。

信号のあっち側にいる、こっち側に来たい人。
信号のこっち側にいる、あっち側に行きたいぼく。

お互いが相手の地点へ行きたいのに、わざわざ待ったり、重い荷物を運ばないといけないのはなぜだろう、とよく思う。
質量の交換が実現すれば、感謝し、され合い、いいことづくめ。

これが利害一致の瞬間移動である。
ひとりではエネルギーの法則に矛盾が生まれそうだが、質量の等交換なら具合もよかろう。
全く同じ質量というのは難しいから、せめて近似値はオーケーということで、誤差は科学に頑張ってほしい。

利害一致の瞬間移動によって、旅行とか交換留学とか、人間の行動範囲はずっと広がることだろう。
ぼくが上京したくなったら、奈良に旅行したい人を東京で探せばいい。
人探しに旅行代理店を活用すれば、彼らの仕事もなくならずに済む。

人間の潜在能力は、大部分が謎のままである。
人間同士の意識が双方向に発揮されれば、ここに書いたことくらい、難なく解決するんじゃないか。
石や草木、さらに大気と通じ合えれば縦横無尽だな。

あのころの大人

1990年代は、ぼくにとって海外ドラマの黄金期でした。
刑事コロンボ、弁護士ペリー・メイスン、そしてX-ファイル。

X-ファイルはアメリカのテレビドラマで、2000年代でいうところの『24』『プリズンブレイク』『LOST』のようなものです。
当時はミステリーサークルやサイコキネシス、ノストラダムスの大予言なんかがメディアをにぎわせていて、ぼくもそんな特番をよく観ていました。

時を同じくして、古畑任三郎シリーズが始まりました。
犯人役で登場する風間杜夫がX-ファイルのモルダー捜査官の声を吹き替えていると知ったときには、妙な心地がしました。
なぜならデビッド・ドゥカブニー扮するモルダー捜査官は敏腕であり、古畑任三郎に登場する風間杜夫はおっちょこちょいだったからです。
以来、モルダー捜査官を見ると風間杜夫の顔が浮かんでくるようになり、その都度やはり、妙な心地がしました。
小池朝雄や石田太郎の声を聞いてコロンボ警部を連想する人も多いのではないでしょうか。
※余談ですが古畑任三郎は警部「補」です。

それから十余年、X-ファイルを字幕で見る機会がありました。
初めて聞くデビッド・ドゥカブニーの肉声はとても新鮮でした。
スカリー捜査官やスキナー副長官、エイリアンやUFOといった映像に情さえ感じながら、ぼくはまたぼんやりと画面を眺めていました。

懐かしく、しかし新鮮な好奇心とともに画面を眺めていると、モルダー捜査官が何か小さなものをかじり、殻のようなものを吐き出すのを目にしました。
かじっては吐き出し、かじっては吐き出し、そんなシーンを眺めていると、今よりも感化されやすかった時代がよみがえって「モルダー捜査官と同じものを食べたい」と思うに至ったのです。

子供はカッコいい大人のまねをします。
サングラスに憧れたり、たばこを吸ってみたり、飲めない酒に酔ってみたり。
やがて成人したぼくは、たばこを捨て、必要に応じてサングラスを使い、味わうために酒を飲むようになりました。
それから、ふと世の中が色あせてしまう時期がきました。
楽しみというものが絵空事のように感じられる、そんな時期があったのです。

しばらくしてモルダー捜査官の食べていたものが「ひまわりの種」だと分かり、久しぶりにワクワクしながら外出しました。
近所の、そこそこ大きなリカーショップに行ったのですが、残念ながら取り扱いはなく、せめて「かぼちゃの種」だけ買って帰りました。
色はまるで違いますが、大きさは似ていたのです。

厚さ数ミリ程度のかぼちゃの種を小さくかじると、いい気分になりました。
モルダー捜査官がそうしたように、遠い目をしてかじるかぼちゃの種は、懐かしい大人の味がしました。

冷遇の2月

2月はどうして28日しかないのだろう。
4年に1度だけ29日目が付与される(うるう年という)ものの、6月や11月と比べても1日少ない。
他の月と比べ、よくて1日、うるう年でない年(平年という)には最大で3日も冷遇されるわけだ。
2月生まれをはじめとする関係者は本件に対し、メロスより激怒していいと思う。

しかし、激怒するだけで物事は解決しない。
ぼくはよくよく考え、とてもいい方法を思いついた。
2月の日数をうるう年に31日とし、平年は30日にするのだ。
ともすれば永遠の30日組(4、6、9、11月)が「ずるい」と言うかもしれないが、本来こんな面倒な処理はくれてやって構わない。
物事には段取りというものがあるから、2月に平等な日数を与えることが第一である。

さて2月に付与した日数は、どこかで1日ずつ引かねばならない。
候補は当然31日組(1、3、5、7、8、10、12月)ということに。
ここからふた月が30日組へ移動(異動?)するのだ。
まさにバトルロイヤル。
しかしここでも公平を期す必要がある。
それは31日組内で既に生じている不平等だ。

まず明らかに除外すべき月として12月が挙げられる。
12月は大晦日という行事ならぬ行事があり、31日組の中でも特に冷遇されている。
「年中無休」と明記しながら「※年末年始を除く」という理不尽を誰でも目にしたことがあるだろう。
したがって12月の日数を減らしてはいけない。

また「年末年始」の影響は文字通り1月にもあてはまる。
月初ではあるものの、三が日における自由度の低さは十分に考慮されるべきであろう。

3月もまた年度末という時期を考えるとラスト1日の重みが違う。
末日の変更による影響は、最大公約数的にとどめなければならぬ。

「根本原因たる8月に引き取らせろ」という声に対しては、夏休みの宿題が終わらないお子たちから「大人のケンカに巻き込むな」と文句が出そうでこわい。

残るは5月と7月と10月。
ここへいたると、おのおのが31日の必要性を訴え、既得権益を手放すまいと必死の形相である。
ゆえに最終選考は難しく、しかも独自の結論を本エントリで出してしまうと、該当月に関係する各所から嫌われそうで、やはりこわい。

ところで、ぼくはひとに嫌われるのがイヤで、できるだけよく見られたい。
そんな原点に立ち返り、みんながハッピーになる(俺様が嫌われ者にならない)筋書きを頑張って導いた。
それこそは現状維持であった。
2月の関係者は今までどおり過ごすことで寛容さを示し、31日組は誰も不利益を被らない。
時計職人は胸をなでおろし、印刷業界に激震は走らず、「ニシムクサムライ」が相変わらず使える教育現場はこれからも平和である。

ところでこんな結論に導くと「この問題提起は不要だったのでは?」という顔にぶつかりそうだ。
否。断じて否である。
何も変わらないことの価値は、本エントリの存在によって証明された。
ジャンケンの「裏」と「裏の裏の裏」で意味が違うのと同様、認識の有無によって物事はその姿のまま意味を変えて生まれ変わるのだ。
議論の結果、元通り。という現象があったなら、それは決して徒爾ではない。